最後の要求。
最後の要求。
結局、ずっと言い出すことができず、話をしたのは翌日の朝でした。
前日は一睡も眠れず……と言いたいところでしたが、こういうときでさえも私はいつもどおりの時間に寝ていました。途中で目が醒めることもありませんでした。
しかし、いつもと違い、寝覚めは最悪でした。
普段はパチスロで1日五万円負けようが、一度寝てしまえば翌日にストレスを持ち越すことはなかったのですが、この日は起きた瞬間から胸のあたりがずっしりと重く、脳が痺れるような、妙な頭痛もしました。
台所で勢いよく水が流れる音と、通学する小学生の甲高い笑い声。壁一枚隔てた外界は相変わらず健康的で、何故私だけここまで退廃しているのだろうと不思議に思います。
風呂にはいらず、歯磨きもせずに寝たので、口内が気持ち悪く、顔があぶらで酷くベトついています。ティッシュで顔を擦ると、皮脂が絡め取られて薄っすらと黄色くなりました。
「あら、おはよう」
エプロンをつけた母は皿洗いをしていました。私は「おはよう」と平坦に返し、タオルを持ったままシャワーを浴びにいきます。
洗面台の前にはなんとも情けない顔をした私が映っていました。目の周りが腫れぼったくなり、青白い顔に不相応な褐色のくまができ、眼にも力がありません。シャツは首のまわりが緩み、油を吸った髪は、だらしなくひたいに張り付いていました。
タイルが水を鋭く弾き、煙草の臭いを吸ったお湯は排水溝へと流れていきます。私はいつものように両手で擦るようにして、入念に髪を洗いました。
『もうこれで最後だ、最後。本当に最後の最後。「学生生活ではほぼパチスロだけしてました。それ以外なにしてたのかよく覚えてません。私はクズです。」俺の人生はそれでいい。まずはそれを認めよう。それからちゃんと更生して、明日からまともな人生を歩んでいけばいいじゃないか』
風呂場の窓は日光を取り込み、湯気はしろい光を反射して、複雑にうねっています。
借金を完済して、もう二度と借金ができないようになれば、鏡のまえの私も少しは健康的になり、これまで塞がれていた世界も開けてくるのでしょうか。
借金がきっかけで、日常の生活サイクルができなくなってしまったことも事実なのです。大学に行かない頻度が加速したのも、借金をするようになってから。
いまそのときの快楽を得るために、将来が犠牲になる。単なる日常が、「借金を返すための日々」に変わっていく。それがなくなれば、もう、肉体労働も、看板持ちも、工場夜勤も、やらなくていい。
『そうだ、俺は変わる。変えられる。変わってみせる。借金がなくなったら、またやりなおそう。いままでの俺を取り戻すんだ』
私はお湯を止め、着替えました。親が仕事に行ってしまう前に。早く。早く。
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「母さん、3万円欲しい」
そう切り出したのは結局、親が仕事にいく直前でした。勇気がわいたはずなのに、実際に行動に移すことは信じ難いくらい苦痛でした。
「え? この前あげたばかりでしょ?」
いぶかしげに母親は私を見ます。
「いや、そうなんだけど、3万円どうしても欲しくて」
私は強い意志を持ち、答えました。
「え?」
「いや、ちょっとどうしても勉強したいことがあって、そのために必要なんだ」
「勉強? なんの勉強なの?」
「ごめん、それはまた改めて、父さんもいるときに話したい。」
「なんなのそれ?」
「いや、こんどきちんと話すから……」
「いまじゃだめなの?」
「うん」
「お金も、いま必要なの?」
「うん」