留年へのチケット。
留年へのチケット。
その週の日曜日の夕食後、父親と母親を呼びました。
この日を迎えるにあたり、意外にも緊張や恐怖はありませんでした。借金が完済できた時点で、こころの負荷がだいぶ減っていたからでしょう。
仮に、話がこじれて、父親に「お前最近、金使いが荒いらしいな。まさか借金してるわけじゃないよな、いますぐ財布の中身を見せてみろ!」と追求されたとしても、私が借金をした証拠など、もうどこにもないわけです。
話の目的は、両親に、私が留年する本当の理由を隠蔽すること。
それさえうまくいけば、念願の『1年間のモラトリアム』という名のチケットを手にすることができます。
私はもう開き直っていました。
開き直ったのは、ひとつの事実に気がついたからでした。
それは、どんなに困っていても、どんなに傷付いていても、最終的には本人がSOSを求めなければ、誰かが勝手に気付いて救ってくれるわけではない、ということです。
私はずっとそこを勘違いしていました。
だから私は、気づかない相手に対し、どうして気づいてくれないんだろう、どうしてなにもしてくれないんだろうと、1人で勝手に失望し、傷付いていたのです。
そうではないのです。こころの声は、決してテレパシーで伝わるわけではない。
こころの声が伝わらないのなら、私はいっそ歯車が止まるまで嘘をつき続けようと思いました。
私が壊れるまで、いや、壊れても、他人のなかでずっと理想の私でいられ続けるのならそれは私が望んだことであり、本望なのです。
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神妙な顔つきで私は、「大事な話がある、」と言いました。
「大学を1年留年して、公務員試験に挑戦しようと考えてる」
母親は心配そうな顔を、父親は驚いた顔をしていました。
「公務員って、なんの?」
「国家一種だよ。それを目指すんだ。それがダメなら二種に挑戦しようと思ってる」
「どうしてまた……就職するんじゃなかったのか?」
父親は半年前に交わされた会話を思い出したように言いました。
「うん、いや、ちょっと。もちろん、頑張ったよ。少ないかも知れないけど、20社くらい受けた。あとすこしで内定が出るってとこも結構あった。旅行代理店も含めてね。でも、就活を続けているうちにだんだん思ったんだ。自分は小さいころ、世の中を動かすような人間になりたいと思ってたって。もちろん、恥ずかしいから誰にも言ってないけどね。小学校のころから、漠然とだけど、ずっとそう思ってたんだ。もちろん、民間の会社にはいったらそういうことができないと言ってるわけじゃない。民間の会社にだって、スケールが物凄くおおきくて、世界中のインフラづくりに関われるような会社があることだって知ってる。でも、省庁にいくことができれば、ものじゃなくて制度づくりに携わることができる。公務員試験は年齢制限があるから、いましか挑戦できないんだ」
私は、参考書の冒頭に記載されていた『国家公務員の仕事の魅力とは』を脳内で切り貼りしながらそれっぽく言いました。
「しかしお前、たとえばどこだ。どこの省庁を目指してるんだ」
「文部科学省だよ。国の教育に携わることのできる仕事がしたい」
「いや、しかしだな、俺の友達にも官僚になった奴がいるが、少なくとも初めのころはそんなに給料も良くないし、残業だって下手な民間よりもよほど多い環境だぞ。それに、やりたいことがあるといっても組織が巨大だし、階層もハッキリしている。お前が考えているような仕事に就けるとは限らないぞ。そういう現実をきちんと調べたうえで言ってるんだろうな?」
「もちろんだよ、別にカネはいらない。残業だって構わないし、サービスだろうがなんだろうがむしろあっていいと思う。安定を求めてるわけじゃない」
「留年すると就職に不利になることもわかってるんだよな?」
「もちろん、わかってる」
「本当にその気なの?」
「本気だよ。正直、それに気づくタイミングが遅かったのは本当に申し訳ないと思うし、すごく後悔してる。でも、いまチャレンジすることを逃したら、一生後悔すると思う」
「1年間か……」
すこしの沈黙のあと、父親は首を縦にふりました。
「わかった。そこまで考えてるのなら、いいだろう。ビジネススクールとかはどうするんだ? 通うのか?」
「いや、留年したらまた授業料もかかる。迷惑掛けたくないし、独学で頑張ろうと思う。実は、このまえの小遣いで、追加で参考書を買ったんだ」
「独学か。しかし、やるなら絶対スクールに通ったほうがいいぞ。ライバルは恐らくほとんどが通ってるだろうし、受験対策の専門家がノウハウを教えてくれるわけだから、勉強の効率性が全然違ってくる。金なら出すぞ」
父親はそう推しましたが、スクール通いは絶対に避けなければなりませんでした。模試などがあれば勉強してないことがバレてしまうし、落ちる言い訳ができなってしまうからです。
「いや、独学でやらせて欲しい。大学受験のときも、予備校は冬季講習しか行かなかったからね。自分のペースでやれることが一番自分にあってると思うんだ」
「そうか……」
父親は腕を組み、眉間に皺を寄せながら天井を見上げました。
「わかった。じゃあ、1年間、死ぬ気で頑張れ。応援するから。母さん、それでいいだろ?」
「え、ええ」
「まあでもお前はやっぱりすごいよ、俺も一時期目指した瞬間があったけど、範囲見ただけでめまいがしたからな。」
「いやいや。目指すだけなら誰にもできるからね。でも頑張るよ、俺。絶対頑張るから……」